番外編 遺志刻む 妻の酒 朝日新聞より


遺志刻む 妻の酒 朝日新聞より a  5月9日付け朝日新聞社会欄に、酒に関する感動的な記事が有りましたので、そのま ま転載します。

 死の床の筆には見えない。淡々とした字。本当にあの人らしい。新しい酒のために3 文字書き残して80時間。夫は息をひきとった。
 坂本敬子さん(42)が、その酒を造ることを思い立ったのは去年の春のことだった。ス ーパーで買い物をしていて、有機野菜ばかり選んでいることに気づいた。
 帰り道に考えた。うちのお酒も有機に出来ないかしら。
 敬子さんの夫和彦さんは、茨城県大洗町の造り酒屋、月の井酒造店の6代目だ。
 一昨年3月、45歳の時、がんが見つかり「余命は短ければ半年」と言われた。長男は 中学2年、次男が小学3年、末の娘は1年生だった。「お前たちには悪いが、会社を優 先したい」。通院して仕事を続けていた。
 有機の話をしてみた。「そう思うなら、お前がやってみろよ」。これまではレジを打 ち、酒蔵見学の案内をするくらいしか仕事にかかわっていなかった。
 有機の日本酒第1号を造った秋田の酒蔵に教わりに出かけた。
 原料が有機米でなければいけないのはもちろん、蔵や道具にも条件がある。普通に準 備したら3年がかりだという。3年もかけてはいられない。宣告された夫の余命は、と うに過ぎている。
 大慌てで、酒用の有機米を作ってくれる農家を探した。ぎりぎり田植えに間に合った 。
 夏を迎えた涼しい夏だった。夜遅く、和彦さんが、おばと話し込んでいた。
 「おやじが死んで13年、なんとか家業を守ってきたけれど、おれの代でのこせるもの が何もない」。
 病気が進んでかれ始めていた声が、一段とかすれて聞こえた。見ると泣いている。初 めて見る夫の涙だった。

 もともと愚痴や不平を言わない人だ。穏やかでまじめ。見合いの席についた時、あん まり落ち着いて見えて、仲人さんと間違えた。
 がんと知っても平静に見えた。「なるようにしかならないよ」。会合の招待状は、端 から「出席」にまるをつけて返送している。
 そんな人が無念を語っている。有機のお酒をなんとしても成功させなければと思った 。夫が生きたあかしにしたい。
 酒の仕込は数ヶ月後に迫っていた。蔵の掃除には、薬品は使えないので、熱湯で何度 も床をふきあげる。板の目の米粒を金串でほじくりだした。
 原価計算や見積書作りも悩ましかった。夫に相談すると「自分で調べろ」と突き放さ れた。病人であることを忘れて、食ってかかりそうになった。
 クリスマス。敬子さんは和彦さんに小瓶を見せた。搾ったばかりの有機の原酒。最初 の味見は社長の仕事だ。「きれいな酒だ」和彦さんはそう言った。
 1月、容体が悪化する。「最後の入院と思って下さい」。医師に言われた。
 新しい酒のラベルを夫の文字で作りたい、と思った。筆をとるちからは残っているだ ろうか。
  一番書き慣れた字。「月の井」と「和彦」から「和の月」と書いてもらうことにした。
a  2月4日。病室の和彦さんに半紙と筆ペンを渡した。かすれて、文字にならない。
 翌5日。長男がデパートで便箋を買ってきた。ゆっくり、3文字書き上がった。
 8日深夜、和彦さんは亡くなった。最後の仕事を終えて80時間。腹水を抜き、好物の フルーツゼリーを食べ、3人の子供に代わる代わる添い寝されて過ごした。
 葬儀から何日かたって、通帳を探していた時だ。金庫を開けると会社の封筒があった 。右隅に鉛筆で「敬子へ」。遺言状だった。
 「色々と世話になり、本当に感謝の念で一杯です。子供達がまだ小さいので、立派な 成人になるまで会社の方は敬子が代表者として頑張る様、よろしく頼みます」。
 生前、身の振り方について、それとなく夫に聞いたことがある。「好きにしたらいい よ」「お前は金勘定がだめだしなぁ」。そんな返事だった。
 生きているうちに本音を言ってくれればよかったのに。原価計算を手伝ってくれなか ったわけが分かった気がした。
 4月27日、ラベルの印刷が仕上がった。もみ殻を織り込んだ和紙に和彦さんの文字 。戒名にある和の字の読み方にならって「なのつき」と読ませる。

                 文・湯瀬里佐、写真・川津陽一

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